2013年3月

ふくしま復興塾初代実行委員長

(株)ピーエイ 代表取締役社長 加藤博敏

福島を襲った未曾有の災害は放射線という深刻な被害をもたらし、未だその収束は見えず、
未だ福島の未来を想像することはできません。

福島を去る人、残る人、家族がばらばらになってしまう人、仕事を失う人、様々な人達がいます。
その過酷な運命の中で、今も厳然として福島で生まれ育つ若者達がいます。

逆境が人を作ると言います。そして今の福島以上の逆境はありません。
だとすれば福島からは将来有為な人材が生まれるはずです。もっと言えば生まれて、
その人達が福島の未来を創ってゆかなければなりません。

福島の逆境が、福島や日本を作る未来の英雄を育たなければ、福島に生きる人の過酷な運命とのバランスが取れません。
かつて幕末北越戦争戊辰戦争の一つで敗れた長岡藩は減知され、実収にして6割を失って財政が窮乏し、藩士たちは
その日の食にも苦慮する状態でした。このため窮状を見かねた長岡藩の支藩から百俵の米が贈られることとなりました。

藩士たちは、これで生活が少しでも楽になると喜びましたが藩の大参事小林虎三郎は、贈られた米を藩士に分け与えず、
売却の上で学校設立の費用とすることを決定しました。藩士たちはこの通達に驚き反発して虎三郎のもとへと押しかけ
抗議するが、それに対し虎三郎は、「百俵の米も、食えばたちまちなくなるが、教育にあてれば明日の一万、百万俵となる」
と諭しました。
これが越後の米百表のいわれです。

このプロジェクトは、「福島の米百表」福島の若者を育てるプロジェクトです。
福島の若者に「本物」に出会う機会を作り、そこから福島の若者が刺激を受け、大きく育つ。

「30年後の英雄は福島から出る」ということを信じて、このプロジェクトをスタートしたいと思います。

ふくしま復興塾事務局(立ち上げ当初)

2011年3月12日の朝を、私たちは一生忘れないだろう。
もちろん、前日、3月11日の揺れも経験にないほど大きく、忘れられない経験ではあったが、
本当の当事者以外の人にとっては12日の朝のテレビから流れる情報の方が衝撃だったのではないだろうか。
信じられない映像と、信じられない言葉たち、その後、信じられない事故も起きた。
これまで影の薄かった福島出身という要素が、自分たちを特徴づける重要なキーワードに変わった。

そんな福島の若者である私たちは、
世界に類を見ない危機的状況に陥った福島の未来を担わなければならないと感じている。
しかし、今の私たちの実力や経験では、福島のビジョンを描くことも、描いたビジョンを実現することも正直、難しい。
そんな葛藤を抱いている福島の若者はたくさんいると思う。

私たちが生まれ育った福島は、国内で三番目に面積が大きい都道府県である。
また県内は大きく三つの地域(会津・中通り・浜通り)と分かれており、地域ごとに風土も文化も全く異なっている。
その上、交通の便も悪く、往来は少ない。さらには、福島市と郡山市の覇権争いのようなものまで起こる始末である。
要は、同じ福島県内と言えど、地域同士が震災以前からバラバラだったのだ。
だから、これまで「福島出身」や「福島在住」と言ったところで、地域が異なれば、
ある意味「別のところの人」という感覚を持っていた。

しかし、そのような福島も震災を機に、地域や分野の異なる人たち同士の連携が生まれてきたことを感じることが度々ある。
多様かつ複合的な問題の渦中にある福島の未来を切り拓いて行くためには、様々な主体や地域が連携し、
お互いを補完しあうことが間違いなく重要なはずだ。
かつて、日本の新しい時代を切り拓くために対立していた薩摩藩と長州藩が同盟を結んだように、
福島の新しい時代を創っていくためには、私たちも、地域間のわだかまりから脱却し、分野や地域を越えたメンバーで
一緒になって、前に進んでいくことが必要なのではないだろうか。

100年後の後輩たちに、あの2011年を生きていた先輩たちのせいで、
このような不遇な日々を強いられているなどと思われたくはない。
そうではなく、2011年以降の先輩たちの活躍で今があるのだと思われたい。
そのような未来を築いていくという志を共にできる仲間達と、100年後に誇れる福島を創造していきたい。

私たち福島県内中の若者が繋がり、切磋琢磨しながらも、
福島における役割を個々人がそれぞれ全うしていく決意をここに新たにし、本プロジェクトをスタートしたいと思います。

写真1:復興塾ロゴ